【与えられた命】
「あなた」には、幼いの頃の記憶が残っていることでしょう。
お父さんの大きな背中、お母さんの暖かい手のぬくもり。
白いソファーの上から見る景色は格別です。
リビングのカーペットが敷かれたフィールドは、「あなた」の世界でした。
しかし、その環境を用意したのは、「あなた」ではありません。
「あなた」は「お父さん・お母さん」を選ぶことはできませんでした。
それどころか、この世界にあなたが誕生することすら、「あなた」の選択ではありません。
時が経ち、思春期を迎えると、「あなた」は親に対して、こんなことを言ったかもしれません。
「私を生んでくれと頼んだ覚えはない、こんなところに生まれてこなければ良かった!」
親にとっては、とてもショックです。
更に、親が慌てて、「私たちは、あなたに会いたかった」なんて言葉を返そうものなら、「それなら、私は親の都合で生まれたのか!」と、やり返されることになります。
確かに、「あなた」の存在は自分自身で意図したものではなく、強制的に与えられたものであることは事実でしょう。
それは、誰から与えられたのでしょうか?
【人生を描いたのは誰か?】
「あなた」が成長するにつれて、自分の行動につき自ら判断する機会が増えていきます。
やがて、「親」となった「あなた」は「自分も、こうして生まれたんだ」と気付きます。
親が子供を産むという行為は、DNAにプログラムされた「本能」が起動したからであり、「あなたに会いたかった」という理由は真実であれ、後から付け足されたものでしょう。
「本能」は「第一の脳」「第二の脳」が司り、あなたの「無意識」の領域にあります。
「脳」を含む身体は、あなたのDNAという設計図によって展開構築された物的存在。
DNAも物的存在であり、物的存在は全て物理法則に従い様々な現象を引き起こす。
生命現象も、その一つです。
ところで、マルチバースを構成する部分である、「一つの宇宙」は決定論的宇宙であるため、存在した瞬間に、その宇宙で起こる全歴史が確定されています。
よって、「あなた」の外側にある視座からは、そこに現象する、「あなた」の人生に「自由意志」の余地はないことになります。
つまり、「あなたの人生を描いている」のは、「あなた」でも親でもなく、物理法則ということになりますが・・・
然しながら、このブログでは、マルチバースは∞パターンの宇宙の重ね合わせ状態と考えているので、「あなたの人生」も∞パターンの重ね合わせ状態となっています。
よって、「あなたの意識」の視座からは「どのパターン」に進むかを選択する「自由意志」の余地が生まれることになります。
そうであるならば、「あなたの人生を描いている」のは、「あなた」自身です。
また、「あなたの意識」が成立する前においても、「あなた」の前駆体である両親が「あなた」の誕生を選択していますし、更にその前駆体である祖父母は「あなたの両親」の誕生を選択していますし、その連鎖は「あなたの住む宇宙」の始まりまで遡ります。
つまり、「あなた」の命は強制的に与えられたものではなく、まだ前駆体に過ぎなかった「あなたの萌芽」が「あなた」の誕生を選択したとも言えるのではないでしょうか。
【何故、今ここにいるのか?】
この問いには、二つの「問い」が含まれています。
一つ目は、何故「今ここ」という時空上の制約がかけられてしまうのか? という問い。
これに対する答えは、既に考察済みです。
つまり、「あなた」がこの世界を見るための装置である「意識」の「時間一方向進行性・時空局在性」の性質が、あなたを「今ここ」に閉じ込めてしまうのでした。
二つ目は、① 何故「他の時間」ではなく「今」なのか?
② 何故「他の場所」ではなく、「ここ」なのか?
③ 何故「他の宇宙」ではなく、「この宇宙」なのか?
④ 何故、「他の誰か」ではなく、「わたし」なのか? という問いです。
「無意識」の領域である物的実在の世界は「非局在性」を有し、時間や場所について「今」も「ここ」もない世界でした。
この世界を、「あなた」の「意識」が切り取るとき、誰が、どのような基準に基づいて、その「今ここ」を決めたのか?
「あなたの身体」は純粋な物質ですから、決定論的「一つの宇宙」においては、時間軸の座標が決まれば、「あなたの身体」が占める空間の座標も同時に決まることになります。
よって、「今」と「ここ」はセットとして考えることができます。
それでは早速、順を追って考えてみましょう。
例えば、「あなたの住む宇宙」における「あなたの人生」を、最小の時間単位で「輪切り」にして、時系列順に<・・>というイメージで横に並べたと想像してみましょう。
ちょうど、「あなた」が毎朝バゲットを切り分けるように。
全ての「切り分けられたバゲット」の中には、それぞれ一人ずつ「あなた」がいます。
それぞれの「あなた」は、こう言うでしょう。
「わたしは何故、他の時間や他の場所ではなく、今ここにいるのか?」
「切り分けられたバゲット」の、各部分においての「あなた」は、それぞれ自分の属する時間・場所こそ「今ここ」であると主張しています。
次に、これを縦に<:>というイメージで並べてみましょう。
この時、それぞれのバゲットの一つは「あなたの住む宇宙」であり、その他は「他のパターンの宇宙」を表すこととします。
つまり、「あなたの住む宇宙」と全く同じ宇宙ですが、少しずつ「時間軸がズレながら進行するパターンの宇宙」が「重ね合わせの状態」で、そこにあるということです。
この時も、それぞれのバゲットの中の、それぞれの「あなた」の主張は変りません。
すなわち、①②③の三つの問いは、本質的に同じ内容だということです。
そして、多くのバゲットの中で「あなた」の「今ここ」が、その中の、どのバゲットにあるのかは、「あなたの意識」が起動したときに決定されます。
より詳細に見てみましょう。
最初は「あなたの身体」が、どれか一つのバゲットに存在するところから始まります。
それが、どのバゲットなのかを「あなた」はまだ知りません。
次に、そこに存在する「あなたの身体」から「あなたの意識」が現象します。
そこで初めて、「あなた」は、「あなたの身体」が、どのバゲットにあったかを知ることになります。
つまり、「あなた」の「今ここ」は「あなたの身体」の「居場所」のことであり、誰かが選択して決定されたものではありません。
「あなたの身体」から現象する「あなたの意識」は、「あなたの身体」から離れては成立しません。
よって、その指し示す「今ここ」は、「あなたの身体」の「居場所」以外にないのです。「他の時間」「他の場所」「他の宇宙」ということはあり得ないということになります。
これが、①②③の問いに対する答えです。
しかし、そうであれば「身体の居場所」は最初から決まっていることになります。
「非局在性」を有する物質であるにもかかわらずです。
これは、どういうことでしょうか?
これは、「視座」の問題です。
「マルチバース」のスタンダードである「重ね合わせ状態」の視座からは「あなた」も重ね合わせ状態であり、その居場所を特定することはできませんでした。
しかし、「マルチバース」の構成要素の一部分である「一つの宇宙」の中の視座からは「あなた」は一人であり、その居場所は特定されます。
この世界に、たとえ「意識」というものが現象しなかったとしても、「マルチバース」も「一つの宇宙」も存在しており、それぞれの視座を考えることができます。
では、④の問いは、どう考えたらよいでしょう?
現に、「あなたの無意識」の領域は「非局在性」であり、時間も場所も特定できませんから、その意味で「あなた」は誰にでもなれる可能性はあるかも知れません。
しかし、「あなたの意識」と、その連続体である「あなたの自我」は、「あなたの身体」を離れては存在しないことは、前述の通りです。
「あなたの身体」から現象する「意識・自我」は「あなた」以外には成り得ないのです。
そうではなくて、「あなた」が「あなたの身体」ではない別の「他の誰かの身体」であった可能性は無いのか? という意味の問いであったならば、話は変わってきます。
この問いの「あなた」は、これまでの考察に登場した「あなた」を意味しません。
これまでは「あなた」は、先に「一つの身体を持っている」ことを前提としていました。
しかし、この問いの「あなた」は、先に「身体」を持たずして成立する「あなた」です。
「身体」を持たない「あなた」には、本来「意識」も「自我」もないはずです。
仮に、そのような「あなた」がいたとして、元々の「あなたの身体」とは別の「誰かの身体」に入ったとしても、元々の「あなたの身体」にあった「意識」も「自我」もない「あなた」は、その経緯を思い出すことができません。
そして、「あなた」は、そんな経緯も知らず、「あなた」が入った「誰かの身体」のことを、初めから「あなたの身体」だと認識するはずです。
つまり、「あなた」が「あなた」ではない「他の誰か」であった可能性は、あっても、なくても、同じ結果になるのです。
但し、この視座は、とても重要な論点を含意しているように思えます。
何故なら、ここに「あなた」の本当の姿が隠されているように見えるからです。
以前、考察した「DVD」の例えの中で、ディスプレイに映し出された映像が「意識」で、その映像を見ている「あなた」が「自我」に相当するという考察がありました。
この時、「映像を見ようとした者」の正体については明らかにしていません。
「自我」は「映像を見た後」に現象する主観であって、「映像を見る前」には現象していませんので、「映像を見ようとした者」には該当しないはずです。
その正体は一体何なのでしょうか?
それは「無意識」以外にはあり得ないでしょう。
以前、「あなたの五感を全てシャットアウトしたら、あなたの世界は消えてしまうのか?」という考察をしました。
その際は「あなたが何かを思考する限り、あなたの世界が消えることはない」という結論に至りましたが、その前提条件として「内部からのインプット情報」と「脳内世界モデル」の存在がありました。
今回は、「内部・外部インプット情報」「脳内世界モデル」さえも失った場合を考えてみましょう。
こうなると、「あなた」の「意識」に立ちのぼる情報は皆無であり、これを総覧する「自我」も成立しないことになります。
そう、残されたのは「無意識」だけであり、「あなた」という主体感覚の無い世界です。
つまり、先述の「映像を見ようとした者」は「無意識」ということになります。
そうであるならば、「あなた」の根源的な正体は「無意識」。
そして、そこにはもはや「あなた」という個人の主観は存在せず、敢えて言うならば、「この世界」の全てが一体的な「主体」となるでしょう。
「あなた」は、今この瞬間も、「他の誰か」を同時に生きているのかもしれません。