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  • 執筆者の写真K.Matsui

未来は変えられる

【笑うから幸せになる?】


「因果律の双方向性」とは「原因と結果は対称性を持つ」ということでした。

そうであるならば、「無意識の情報」→「意識に立ちのぼる内容」→「自我の感覚」という原因と結果の時系列は「自我の感覚」→「意識に立ちのぼる内容」→「無意識の情報」に逆転しても同じように作用することになります。


「笑えば、脳が騙されて幸せな気持ちになる」などと、よく言われます。

本来、「笑う」という行為は何かしらの「可笑しい」対象が五感を通して「無意識」に感覚され「快」の判断を下し、その結果「笑う」という動作を表情筋に命令し、同時に「快」を催すホルモン物質が分泌される。

この情報の一部が「意識」に立ちのぼり、「自我」は自らが「可笑しい→笑う」という行為に至っていることを感覚しているということです。


これを、先程の言葉の通り、可笑しいこともないのに、「自我」が表情筋に「笑う」ことを命令するとしましょう。

「笑う」という動作をしている内部情報を感覚した「無意識」は「快」を催すホルモン物質を分泌する結果、この情報の一部が「意識」に立ちのぼり、「自我」は自らが「可笑しい気持ちになったこと」を感覚することになるでしょう。


しかし、これが「脳」を騙したことになるかは微妙です。

原因もなく「笑う」という行為は「快」を一時的に現象させることはできても、原因が無いという「不快」の感覚がすぐに追いかけてくることになるからです。


そうではなく、例えば、「コーヒーの良い香りで華やかな気持ち」になりたいという欲求が湧き、実際にコーヒーを淹れて実現したとしましょう。


この時、欲求を持ったのは「無意識」です。

「無意識」は「種の保存」のため身体の内部環境・外部環境を感覚して「快・不快」を判断し、行動を促す。

「無意識」が「コーヒーの香り」を求めたのには、そのタイミングで、それが「種の保存」に必要なものとの判断があったからです。


もっと具体的に言えば、腸内細菌や人体を構成する細胞群の一部が「コーヒーに含まれる成分による身体へ与える作用を要求した」ということ。


そして、この欲求は「意識」に立ちのぼり「自我」は「コーヒーの良い香りで華やかな気持ち」になりたい自分を感覚し、コーヒーを淹れる作業に取り掛かる。


最終的に、実際にコーヒーの香りは五感を通して「無意識」が感覚し、「快」を催すホルモン物質を分泌する結果、この情報の一部が「意識」に立ちのぼり、「自我」は自らが「華やかな気持ちであること」を感覚することになる。


これを「因果律の双方向性」を活用するとどうなるでしょうか。


幸せな未来を描く人

【これは引き寄せの法則?】


まず、「無意識」の欲求が無いにもかかわらず、「自我」が「コーヒーの良い香りで華やかな気持ちとなる未来」のビジョンの中で、その状況を「経験」したとしましょう。

但し、未来のビジョンを「想像」するのではなく、その未来のビジョンの中に没入して、その「快」を実際に「経験」することが必要です。


「経験」するということは、その段階で「無意識」は「快」を催すホルモン物質を分泌しており、この情報の一部が「意識」に立ちのぼって、「自我」は自らが「華やかな気持ち」となっている未来を感覚してしまっている。


「原因」と「結果」は表裏の関係であり、片方では存在し得ないものです。

例えば、「現在と未来Aの結果」を持つ「パターン宇宙A」と「現在と未来Bの結果」を持つ「パターン宇宙B」との重ね合わせ状態にあるとします。

仮に、「未来Aの結果」に対して「無意識」が「快」の判断を下したとします。

それは「種の保存」にとって最適解であったことになるため、「無意識」は「種の保存」のため「未来Aの結果」を持つ「パターン宇宙A」を指向し、判断を誘導することになるでしょう。


そのため、「あなたの無意識」は「コーヒーの良い香りで華やかな気持ち」になりたいという欲求が湧き、実際にコーヒーを淹れて実現させることになる。


つまり、「あなた」は自らが設定した未来のビジョンへの没入を維持することにより、現在の環境が、「没入している未来の環境」へ近づいていくのを目撃することになります。

そして、時間の経過と共に、未来のビジョンが現実のビジョンと一致することになる。


ここまでの話は、いわゆる「引き寄せの法則」と同じ様に見えます。

もちろん、「引き寄せの法則」を全否定するわけではありませんが、それらの記載の中に、このブログのような具体的な機序が語られていません。

結論は一緒でも、そこに至る過程と用いる手法は全く異なるものです。

丁度、原始仏教の内容が量子力学の内容と似通っているのと同じです。


また、このブログの方法論を実践した場合に、「あなた」が「不思議」「偶然」という感覚を持つことはないと思われます。


恐らく、実践後は「当然」や「必然」という感覚を持つことになるでしょう。

そこも、機序を語ることのできない「引き寄せの法則」などと異なるところです。


例えば、「親孝行のため、親をスイス旅行に連れて行きたい」と思ったとします。

そのためには「あなたの自我」が「親をスイス旅行に連れて行って親孝行をする未来」のビジョンを正確に描けなければなりません。


正確なビジョンを描くためには「親」に関する状況、「スイス旅行」に関する状況、また「自分」に関する状況などの「環境」情報を収集分析する必要があります。


その上で、このビジョンを描いた時に「親の喜ぶ顔」「スイスアルプスの景色」「匂い」「温度」などの様々な状況が明確にあり、それによって感覚される「喜び」「平穏」「達成感」「感謝」などの「幸福感」すなわち「快」の感情が明確に現れなければなりません


ちなみに、「感謝」とは「ありがたいと感じる」ことであり、この場合の「ありがたい」とは、「その人にとって望ましい方向性を持つ、特別な状態」と考えることができます。


つまり、「当たり前」「標準的」な状態ではなく、「運が良い」「特別」な状態の時に現象する感情が「感謝」です。


一方、「幸せ」は「その人にとって、望ましい・快い・運が良い状態」のことであり、それは、「望ましくない・快くない・運が良くない状態」を標準とするからこそ生じる概念です。


そうであるならば、「幸せ」は、その人にとって「標準的ではない特別な状態」ですから、

「感謝」は「幸福感」の成立に必須の要素ということになります。


【為せば成る】


話を元に戻します。


「あなた」は、現在のビジョンが、描いたビジョンと一致する未来まで、それら「快」の感情を継続する必要があります。


その過程で「無意識」から様々な行動欲求が「意識」に立ちのぼることになるでしょう。

「旅行資金」を蓄えること、「旅行日程」を確保すること、それにまつわる様々なこと。

その中には、「面倒な仕事を片付ける」「部屋の大掃除をする」あるいは「新たな人間関係を構築する」「新しい生活習慣」など「旅行」とは全く無関係のように思える作業もあるでしょう。


しかし、それらの行為は、「あなたの自我」が「スイス旅行」を「計画」した際のものとは異なり、「無意識」から来る「理由のない」欲求として感覚されることになります。


そして、それら「無意識」の欲求は「意識」に立ちのぼる事項だけではなく、「個体」の内部・外部環境に対して様々な無意識下での働きかけを伴うものです。


「非局在性」のコヒーレント状態にある「無意識」の領域は「自我」の「脳内世界モデル」では到底及ばない∞の広がりを持っているため、「無意識」の欲求は、「あなたの自我」が邪魔をしない限り、必ず満たされることになります。


「無意識」は「親孝行のためのスイス旅行」という「あなたの幸せな未来」を起点として

「あなたの過去」を書き換えているとも言え、「あなた」の「現在」は、その書き換えられた「過去」であるという見方もできるでしょう。


しかし、「あなたの自我」の視座から見れば、「スイス旅行」に関する膨大な作業を行ったのは「自我」であり、それが実行される段階では、その実現はもはや「当然」のことであり、「必然」にしか見えないでしょう。

「為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を成らぬと捨つる人の儚き」

有名な武将の名言ですが、ここまでの考察をしてきた「あなた」なら、この言葉が単なる精神論ではないことがわかると思います。


誤解を恐れずに言うならば、寝ても覚めても、それを思わずにはいられない程、人が本気で欲する未来のビジョンというものは、その時点で既に未来は実現していると考えられます。

それはスピリチュアルでも都市伝説でも宗教でもなく、この「新哲学」が論理的に導き出した結果です。


但し、多くの場合、この方法に失敗します。何故なら、「あなたの自我」が描くビジョンを基に、せっかく動き出した「無意識」の欲求を、「あなたの自我」が邪魔するからです。

「自我」は自ら計算した「予測」に基づいて自分自身に「限界」を設定しようと試みます。


そして、「無意識」のもたらす欲求を「実現不可能」と決めつけるのです。

この状況は即座に「無意識」へフィードバックされ、「実現」に向けての行動に対し「不快」の判断を下すことになります。

こうして、「あなた」の描く幸せな未来のビジョンは、描いた本人の手によって消されてしまうのです。


例えば、「スイス旅行」に行くための資金が確保できないのではないか?

現地の言葉が理解できないので、不測の事態に対処できないのではないか?

そもそも、そんな長期間に渡って仕事を休むことなど難しいのではないか?

「あなたの自我」は狭い「脳内世界モデル」の情報から様々な限界を予測し、否定的な判断を下そうと試みるのです。


しかし、「あなたの無意識」はGPSナビゲーションシステムのように、「あなたの自我」が知り得ない情報を∞に持っていますので、混雑を避けて最短時間で目的地に到着するルートを瞬時に特定しています。

よって、「あなたの自我」には到底理解でいない狭い道に誘導していくこともあるのですが、その機序を理解できない「あなたの自我」は自らナビゲーションシステムのスイッチを切ってしまうのです。


もちろん、この考察によって、その機序を理解した「あなた」なら「無意識」のスイッチを切ることはないでしょう。

「あなた」のすべきことは、「目的地を変更しないこと」「ナビゲーションシステムのルート選択に従うこと」、つまり「ビジョンを維持すること」「無意識の欲求に従うこと」それだけです。


それは、決して「楽な道」を意味するのではありません。

「為せば成る、為さねば成らぬ」とは、そういうことです。


ここで、ひとつ注意しなければならないことがあります。

「自我のビジョンが無意識をコントロールする」際の「ビジョン」が「幸せな未来」ではない場合でも、このシステムは有効に働くことがあり得るということです。


「あなたの自我」が「不幸な未来」を予測している場合、その未来のビジョンに「快」の感覚がなくとも、「予測した通りに未来が実現すること」自体に「快」を感覚することがあり得るため、その場合には「不幸な未来」が実現することになります。


ところで、この話は「あなたの自我」が「個体の保存」のために自分の目的を成功させた話のようにも見えますが、更に外側の大きな視点から見れば、その行為の全ては「無意識」の欲求から来ていたと考えることもできます。


つまり、「あなたの自我」が、「親孝行のため、親をスイス旅行に連れて行きたい」と、そのビジョンを描くことを意図したことですら、実は最初から、そのような決定論的宇宙に存在していたとも言えるのです。


さて、ここまでは「スイス旅行」という、人生全体の中でも、かなり限定された範囲の考察でしたが、これを人生全体に拡大して考えることができます。


次回は、「幸せな人生」と、そこから必然的に導出される「死」について考察します。

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