【小さなチョコレートケーキ】
「あなた」は今、何らかの苦しい状況にありますか?
でも、安心してください。
それは、ほぼ間違いなく、来るべき「幸せ」の準備をしているに過ぎません。
その仕組みを一緒に考察していきましょう。
ちなみに、「幸せ」は純粋に哲学的なテーマです。
もしも、「あなた」が「幸せ」という言葉に学究的なイメージを持てないとしたら、それは、現代科学の研究対象としてコンセンサスを得られていないことが原因だと思われます。
この世界の現象は、究極的には全てが「物理現象」です。
「意識」や「幸せ」についても、最終的には「量子」の作用として物理学で扱う時代が来ることになるでしょう。
新哲学では、これらを少々先取りしながら考察を進めていきます。
それでは、何故、人は「幸せ」を求めるのでしょうか?
その前に、「幸せ」とは、そもそも何でしょう?
一つの物語を通して「幸せ」を具体的に考察してみましょう。
「あなた」は極貧の家庭に生まれました。
不景気で両親はまともな仕事に就くことができず、「あなた」に最低限の食事しか与えることができません。
「あなた」が5歳になるころには、自分の家庭が貧しいことを知るようになりましたが、それでも、朝早くから重労働をして頑張っている両親に愛情を感じながら、心優しい子供に成長していきます。
ある年のクリスマスの夜。
街は華やかな電飾に彩られ、楽し気なクリスマスソングが聞こえます。
通りには、プレゼントを両手に抱えた親子連れや、レストランへ向かう若いカップル達で溢れています。
ケーキ屋さんの前では、「あなた」と同い年くらいの子供が親に「チョコレートケーキ」をねだっています。
「あなた」は、クリスマスが大嫌いでした。惨めな気持ちに押しつぶされそうになるから。
今年も「あなた」のところにサンタクロースが来ないことを、「あなた」は知っています。
そんなことより、「あなた」を喜ばせることができずに辛い気持ちでいる両親のことを思うと、より一層、悲しくなるのです。
ケーキの味も、プレゼントを交換して楽しく食事をする家族団らんの時間も知らない「あなた」にとって、クリスマスは苦痛でしかありません。
その晩は、両親の帰りが特に遅く、心配になった「あなた」は人通りがまばらになり始めた表通りまで迎えに出ました。
すると、両親が、見せたことのないような笑顔で「あなた」の元へ駆け寄ってきます。
『ほら、ケーキを買ってきたぞ!』
それは、小さな小さな「チョコレートケーキ」でした。
その晩、「あなた」は初めて、「楽しいクリスマス」という「幸せ」を経験したのでした。
そして、40年が経過しました。
「あなた」は努力して、優秀な成績で大学を卒業し、今や大企業のオーナーです。
今、「あなた」の目に映っている風景は「大都会の夜景を見下ろす景色」「豪華なインテリアに囲まれたリビング」「豪華なディナー」「家族や仲間の笑顔」です。
ディナーの最後は、いつも「あなた」の好きな有名ブランドの「チョコレートケーキ」
「あなた」は言います。
『どんなに有名ブランドのものでも、あの、クリスマスの晩に食べたチョコレートケーキの味に勝るものはない』
これは、あくまで物語ですが(しかも、あなたへのギャラはありませんが)この中には、「幸せ」の正体が隠されています。
クリスマスの晩に「あなた」が感覚した「幸せ」の本質は何だったのでしょう?
「チョコレートケーキ」でしょうか? それとも「両親の愛情」でしょうか?
いいえ、それらは幸福感が現れる「きっかけ」を与えたに過ぎません。
「あなた」には、不幸にも、それまで「幸せなクリスマス」の経験がありませんでした。
そして、あの晩も、「あなた」は何も期待していなかった。
もしも、既にそのような「幸せ」な経験があり、期待をしていたならば、あれほどの「幸せ」を感覚することはできなかったはずです。
つまり、「幸せ」の本質は「あなた」という「個体」の置かれた「環境のギャップ」です。
ある時点における「個体」の環境が、次の次点で元の環境より「快」方向に変化することによって、その個体は「快」を感受し「幸せ」を得ることになります。
そして、その環境が新たな基準となって、次の環境変化の方向性と度合によって「快・不快」を感受する。
このように、「幸せ」は個体を取り巻く環境の時間軸上の変化によってのみ生じる感覚であり、変化のないところには生じないと言えるでしょう。
大富豪となった、「あなた」が毎日「チョコレートケーキ」を食べても「幸せ」を感覚できないのは、そのためです。
つまり、「幸福・不幸」は表裏一体の関係にあり、どちらか一方だけでは成立しません。
よって、「あなた」に今、何らかの「苦しみ」の状況があるならば、それは「幸せ」の準備をしていることになります。
それでは、人々が、このような「幸せ」を求める理由は何でしょう?
生命体は、内部・外部環境を感覚し、「快・不快」という判断基準のもと、自らの行動を決定することで自らの存在を維持します。
「快・不快」の判断結果は「感情」として「意識」に立ちのぼることになります。
例えば、温度・湿度が人体にとって最適な部屋に入った「あなた」は「快」の「感情」を感覚しますが、高温・多湿の部屋に入った場合には「不快」な気分になり、そこに長く留まろうとはしないでしょう。
それは、「あなたの自我」が思考した結果ではなく、「無意識」の領域で自働的に行われる作用です。
「幸せ」の本質は時間軸上の「環境ギャップ」であり、それは「快」の変化量で表されるのでした。
つまり、人々が「幸せ」を求める理由は、「無意識」による自働的な「快」方向への誘導にあると考えることができます。
しかし、「無意識」が自働的に「快」へ導いてくれるのであれば、「自我」が何かを頑張る必要もなく、「無意識」に任せておけば良いことになりそうですが・・・。
ここで、重要なことは、「無意識」が誘導する先にあるのは「人類の幸せ」だということ。
一方、「あなた」が獲得すべきは「あなたの幸せ」だということ。
「あなたの無意識」は「種の保存」を指向するため、短期的に「あなた」を「快」によって喜ばせたとしても、最終的に「あなた」の人生を「幸せ」にする保障はありません。
よって、「無意識」に任せるわけにはいかないのです。
【東洋思想と西洋思想】
「あなた」の人生が「幸せ」なものであるためには、「幸福感」の継続が必要です。
そして、「幸福感」を継続させるためには、時間軸上の環境ギャップを快方向に増大させ続ける必要があります。
東洋的な思想においては、「快」の基準を意識的に低下させることで環境ギャップを確保しようとしました。
「煩悩を滅す」という言葉が、その典型です。
「煩悩」とは、平たく言えば「あれが欲しい」「これがしたい」などの「欲望」のことです。
このブログでいうところの「展張欲」に近しい概念ですね。
更に「煩悩」には「自我」も含まれているようです。
何故なら、「煩悩」を消し去る訓練法である「瞑想」では、「無念無想」を実践しているからです。
「無念無想」とは、一切の邪念から離れて、無我の境地に到達した状態と定義されます。
「無意識」の領域にある「展張欲」は、本来「自我」のコントロールが効きません。
しかし、「展張欲」の作用した結果である「快・不快」の感情は「自我」が認識します。
「自我」を消し去った場合には、もはや「あなた」は「感情」すら認識できないため、そこに残るものは最低限の生命維持機能くらいでしょう。
そうなると、「あなた」には「苦しみ」が無い代わりに「幸せ」も無い状態です。
確かに、人から「欲」が消えれば、「競争」が起きることもなくなり、社会は平和なものとなって、生活環境は良くなりそうです・・・が。
「欲」がないということは、食べるものも、着るものも、究極的には生命維持に最低限必要なレベルに留まることを意味します。
それは、食料・衣服に留まらず、「文明」のあらゆる側面の発展を停滞させることでしょう。
そもそも、「生命体」は「競争」の産物であり、それは「自然の法則」に従うものです。
「自然の法則」から外れる現象は長期的に存続することはできません。
人々の自由意志による健全な「競争」がなければ、それは、抑圧的な社会となります。
また、西洋的な思想においては、「快」の方向性を、「個体」ではなく「社会・集団」へ向けることで環境ギャップを確保しようとしました。
「汝の敵を愛せよ」という言葉が、象徴的です。
「敵」同士が、お互いに愛し合うことができるのであれば、それは、もはや「敵」ではありませんので、社会は平和なものとなって、生活環境は良くなりそうです・・・が。
そもそも、「敵」とは何でしょうか?
それは、相対的に自分の利益と相反する立場にある競合対象であると言えます。
そして、仮に「愛する」の意味を「大切にする」ことと解釈すれば、「敵を愛する」ことは「自分の利益より相手の利益を優先する」ということになりそうです。
つまり、「自己犠牲」
「自己犠牲」が悪いということではありませんが、それが、「個体の幸せ」に結びつくためには「社会的幸福」の実現を経由しなければなりません。
「個体」は「あなたの身体」と、そこに現象する「無意識と自我の共生体」のことですが、「自我」が、「あなた」という概念を、「敵」あるいは「社会全体」に拡張した場合には、「あなたの幸せ」は、拡張された範囲全体の「幸せ」を意味することになります。
そのような状況下では「自己犠牲」という概念は消失します。
何故なら、「自分の利益」と「相手の利益」の境界がないため、全ての行為が「自分のため」のものと認識されるからです。
そもそも、「自我」は「個体の保存」を指向し、それは「自然の法則」に従うものです。
「自我」を「個体」から「他者」へ拡張すること自体、「自然の法則」に合致しません。
「自然の法則」から外れる現象は長期的に存続することはできません。
よって、「自己犠牲」は人々の自由意志によるものでなければならず、これを強要する場合には、抑圧的な社会となるでしょう。
このように、「快」の基準や方向性を無理に変更することは、結局は「個人」への抑圧に繋がっていくようです。
そもそも、「無意識」の領域にある「快・不快」の判断について、「自我」はコントロールできません。
それでは、「あなた」の「幸せな人生」は、結局「偶然」を期待する他ないのでしょうか?
【幸せな未来は必ず存在する】
「あなた」は今、子供の頃に思い描いていた「幸せ」な未来に立っているでしょうか?
そして、その先には「あなたの幸せな未来」が待っているのでしょうか?
『幸せは(私の方へ)歩いてこない。 だから、(私の方から)歩いていくのだよ』
これは、日本の有名な歌謡曲の一節です。
「幸せ」は努力して「能動的」に獲得するものだ、という内容に共感を覚えますが、報われない努力もあります。
一方で、ギャンブルや予定外の遺産相続のように、稀ではありますが「受動的」に獲得する「幸せ」も存在します。
どうやら、コントロールできる「幸せな未来」など無さそうです。
そうなると、結局は「偶然」を期待するしかないようにも見えます。
ところで、「この世界」は「互いに打ち消し合う」数量的に∞のマルチバースでした。
よって、「この世界」に「偶然」などというものはなく、最初から「全て」があります。
マルチバースには、∞であるがゆえに、その中には、「あなた」が「幸せな人生」を持つパターンの宇宙が必ず実在することになります。
そして、マルチバースを構成する部分である、「一つの宇宙」は決定論的宇宙であるため、存在した瞬間に、その宇宙で起こる全歴史が確定されていました。
「あなた」の外側にある視座からは、そこに現象する「あなたの人生」に「自由意志」の余地はないことになります。
然しながら、このブログでは、マルチバースは∞パターンの宇宙の重ね合わせ状態と考えているので、「あなたの人生」も∞パターンの重ね合わせ状態となっている。
よって、「あなたの意識」の視座からは「どのパターン」に進むかを選択する「自由意志」の余地が生まれることになります。
ここからは、「あなたの意識」の視座を中心に考察することとしましょう。
「自由意志」の余地があるということは、「あなた」が現在「あなたの住む宇宙」と重ね合わせ状態にある「あなたの幸せな未来」を持つパターンの宇宙へとシフトできる可能性があるということであり、それは「偶然」を期待する必要はないことを意味します。
但し、それには「自我」の持つ役割が重要になります。
何故なら、「自我」は「あなた」が自由にコントロールできる唯一の存在であり、「自由意志」とは「自我」を意味するからです。
そして、前回の考察で「ホルモン戦争」の終結条件であった「自分の頭で考える」とは、すなわち、この「自我」を起動することに他なりません。
次回は、人生における「自由意志」の余地、つまり、「自我」による「未来」のコントロールについて考察します。
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