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  • 執筆者の写真K.Matsui

正義と暴力

更新日:2023年4月30日

【正義なき力は暴力】


「正義なき力は暴力である、力なき正義は無力である」


これは東洋の伝説的な空手家の遺した、有名な言葉です。


いま、この世界には目を覆いたくなるような「暴力」が蔓延しています。

大国による小国への侵略、独裁者による民衆への弾圧、小さな子供や女性への虐待・・・。

如何なる理由があろうとも、決して許してはいけないことです。


「強い者」が「弱い者」を叩くこと。

これが「暴力」だ。

「正義」には「強い」も「弱い」もない。

ただし、「弱い正義」では「強い暴力」に対抗できないから、強くなるべきだと、空手家は言いたかったのでしょう。


しかし、たとえ「正義」といえども「強い者」が「弱い者」を叩くことに変わりはない。

これも、ある意味「暴力」ではないのか?


青い空と黄色の大地

【正義は暴力になりうるのか?】


よく、「正義は相対的なものである」という人がいます。

ある思想のもとに「正義」といわれるものは、他の思想のもとでは「暴力」にもなりうる。


戦争をする国同士では、互いに「正義は我々にある」というのが通例です。

そして、大抵の場合、それぞれにとっては、それこそが真実だと思っている。

そう、彼等の中では自分たちに「真実」があり、自分達が「正義」に違いない。

そうなると、互いに相手が「暴力」を振るっていると主張するのだろう。

しかし、それでは「正義」は名ばかりのものとなってしまいます。


「正義」を「正義」たらしめるものは、いったい何なのか?


【正義の正体】


ところで、「暴力」のない世界を作るために人類は何をしたと思いますか?

人類は、当事者同士を外側から観察して「公平」を図るシステムを作り出しました。

多くの場合、人は、それを「法」と呼びます。


「法」は当事者を含む閉鎖系の世界においてコンセンサスを得たものであり、「相対」を「絶対」に変換するものです。


この状況、どこかで見たことがありませんか?

そう、前回の「デコヒーレンス」のお話と似ています。


量子AB間で「量子もつれ」の関係が発生しても、それだけではデコヒーレンスは起こらずコヒーレント状態のままですが、このABを外側から観察すると、A・B・観察者をセットとするデコヒーレンスが起こり、観察者の存在する宇宙は「重ね合わせ状態」の内の一つに決定するのでした。


これを「正義」のお話に引き戻すと・・・。

例えば、A氏とB氏は互いに「正義は私にある」と主張する時、A氏が正義である世界とB氏が正義である世界の重ね合わせ状態にあり、それぞれの世界においては、どちらの正義も真実です。

これを第三者が外側から観察する(法に照らす)時、A・B・第三者の世界における正義はたった一つに収束されます。


余談ですが、経済学用語で「フリーライダー」という言葉があります。

「公共財のように非排除性があるサービスについて、対価を支払わないで便益を享受する者」の意とされています。


「フリーライダー」を経済に留まらず、もっと広義に捉えれば「集団で構築したシステムを、その要素である個人が支出した以上の対価を得るもの」と考えることができるでしょう。


例えば、「財産は所有者のもの」という社会的ルールは、その社会集団全員で構築したシステムの一つです。財産が所有者のものにならないような社会では、人々は安心して財産を取得することができません。「泥棒」は財産を所有者から奪って自分のものとするので、彼はフリーライダーと言えます。


この時、「泥棒」という行為には、「財産は所有者のもの」という社会的ルールの存在が必要であることがわかります。

何故なら、「財産」が誰のものでもないのであれば、それを奪ったところで「泥棒」にならないからです。

その代わり、「泥棒」した人も、その「財産」を自分のものとは主張できず、いずれは他の誰かに奪われることになるでしょう。


つまり、「フリーライダー」の本質は、集団に対する「甘え」です。彼らは、社会が自分を保護してくれることを知っているからこそ、社会全体の利益ではなく自分の利益だけを考えることができるのです。


それは「泥棒」「殺人」といった不法行為に限らず、「あなた」が道路を歩く行為さえも「フリーライダー」となり得ます。全国の道路は社会全体で構築するものですが、その利益を享受する度合いは個人によって異なります。


「フリーライダー」は集団システムの不備から産まれるものかもしれません。

しかし、その根本は個人の中に潜む「甘え」です。

そして、その最たるものが「戦争」ではないでしょうか?

「戦争」は多くの人の平穏な生活、権利、命を奪う「泥棒」に他なりません。


非難されるべきは、もちろん「戦争」を仕掛ける人々や国家ですが、それを許す周辺の国家とその構成員である人々もまた同罪であり、彼等の中にある「甘え」の構造が無くならない限り、「戦争」がなくなることもないように思えるのです。


それでは、「正義」の話に戻ります。


「正義」とは「正しい道理」のことです。

そうであれば、「正義」は究極的には自然法則と一致する方向性を持つことになります。

つまり、自然法則は究極的な「正義」です。


自然法則の前では、物質にしてもエネルギーにしても、世界のあらゆるものは、そのアイデンティティを示す数値以外の個性を持ちません。

特別な物も、特別な場所もありません。

もちろん、特別な国も、特別な民族も、特別な人もいません。

その意味で平等な世界と言えるでしょう。

少々飛躍しますが、「人権」の根源もここに通じているはずです。


もしも、「あなた」が「弱い者が強い者に一方的に叩かれている」光景に、何らかの違和感を覚えるとしたら、恐らく、それは自然の摂理に反しているからです。

自然の摂理に反する行為は、いずれは自然の摂理によって埋没する運命にあります。

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