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執筆者の写真K.Matsui

誰のための人生を生きますか?

更新日:2023年4月30日

【あなたの人生には意味がない?】


「人生には意味などない」~ゴータマ・ブッダ

「誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある」~アルベルト・アインシュタイン


一方は深みがあり、もう一方は人間愛に溢れているように感じますね。


しかし、「人生に意味がない」としたなら、「あなた」は何の目的も持たずに、この世界に現れたのでしょうか?

また、「誰かの為」ではなく「あなたの為」の人生を生きることには「価値」が無いのでしょうか?


幸か不幸か、「あなた」は、「ある目的」のために、「ある者」によって強制的に「この世界」に産み落とされました。


「ある者」とは「親」であり、「祖父母」であり、「曾祖父母」であり・・・「先祖」であり、「最初の人類」であり、「最初の哺乳類」であり、「最初の多細胞生物」であり・・・ひいては「最初の生命体」、すなわち、「あなた」の「前駆体」とも呼ぶべき生命群です。


「ある目的」とは、家族という「血族の保存」であり、人類という「種の保存」であり、ひいては生命という「物理現象の保存」です。

(対象が広がり過ぎて焦点がぼやけるため、ここからは「種の保存」にフォーカスします)


ここまで明確な目的をもって誕生した「あなた」の人生に、意味がないわけはありません。

また、この目的の設定から「あなた」の誕生までの過程において、当然ですが「個体」としての「あなた」の意思が入る余地はありませんでした。


そして、この目的の通りの人生しか許されないとしたら、それは自動的に「誰かの為」の人生となるため、上述の言葉からすれば「価値がある」人生となるのでしょう。


しかし、その「価値」とは、誰から見た「価値」なのでしょうか?


それは、人類全体にとっての「価値」ではありますが、必ずしも「個体」としての「あなた」の「価値」には成り得ないはずです。


それでは、「個体」としての「あなた」にとって、「価値のある人生」とは、何でしょう?

また、そもそも、それは「あなた」が求めるべきものなのでしょうか?


生まれてきた目的を知らない赤ちゃん

【あなたを生きる】


「あなた」は青春時代を謳歌しましたか?

「年頃の子供達は扱いに苦労する」と大人は言います。

確かに、急に気難しくなったり、親に反抗したりと、その態度は幼い頃とは違います。


リビングのカーペットの上を這いずり回っていた赤ちゃんの頃の「あなた」は、ソファーの端から見える「猫のしっぽ」を見ても、ソファーの後ろに「猫」がいるとは思いません。

つまり、赤ちゃんは「目に見えない物」は「存在しない」と考えるのです。


やがて、時が過ぎて少し成長した「あなた」は「猫のしっぽ」を見ただけで、ソファーの後ろには「猫」がいると気付くようになります。


これと同じように、「青春時代」の真っ只中にいる「あなた」は、周りの大人達や社会に対して、目に見える表面的な「綺麗で整然とした世界」だけではなく、その裏側に隠れている、「ドロドロしてカオスな世界」に気付いてしまったのです。


そして、「あなた」は途方に暮れるのです。

今まで、ずっと変わることは無いと思っていた、家族・学校・社会への信頼が裏切られた。何も信用できない、自分さえも。


誰にも理解されることなく、この広い社会、地球、果てしない宇宙の中で、どうでもいいくらい小さな存在である自分が「ポツンと一人でいる」ような孤独感に苛まれます。


しかし、「あなたの自我」は、ここにおいて、ようやく完成されたのです。

何故なら、それまで、家族や社会の中に溶け込んで分離不可能な同体であった「あなた」というものが、そこから分離され、家族や社会を対象物として見ることのできる主体性を獲得したからです。


よって、「ポツンと一人でいる」状態は、「あなた」のスタンダードな状態であり、「青春時代」の怒れる「あなた」の専売特許ではありません。


前段が長くなりましたが、「あなた」にとっての「価値ある人生」とは何でしょうか? 


以前、考察した通り、「あなた」は「無意識と自我の共生体」でした。

両者は「種の保存」と「個体の保存」という指向性の違いから、異なる判断結果を提示するのでした。


そうであれば、「あなた」にとって「価値ある人生」とは、「無意識」より「自我」の判断が優先された結果としての人生ということになります。

要するに、「他の誰か」でもかまわない人生ではなく、「あなた」でなければならない人生ということです。


そして、その「必要性」は論じるまでもないでしょう。

「あなた」も知る通り、進化の過程で高度な「自我」を確立した人類が生命体の頂点として、こうして生き残っているのですから。


【幸福を味わえない自我】


しかし、ここで一つ問題が発生します。

「自我」は「喜び」も「悲しみ」も感じることはありません。

何故なら、それらの「感情」は「無意識」の領域にあるからです。


そうなのです。

あなたに幸福感をもたらすのは、あくまで「無意識」であり、「自我」ではないのです。

いくら「自我」を優先して、「あなた」を生きたとしても、そこに幸福感や達成感などの「感情」が伴わなければ何と味気ない事でしょう。


「無意識」の領域は「第一の脳」「第二の脳」で感覚されます。

これらの「脳」は「あなた」の祖先である生物が持っていた「古い脳」です。

系統発生の過程で、この「古い脳」に覆いかぶさるように「第三の脳」が発達しています。


つまり、元々の「あなた」は「第一の脳」であり、その生存可能性を高めるためのツールとして「第二の脳」「第三の脳」へと積層的に発達し、「あなた」は、その都度、「新しい住まい」へと引っ越ししたようなものです。


よって、生命体としての「あなた」にとって、本当にコアな部分は第一、第二、第三と、その順番の通りにあるわけで、その中で「あなた」自身を唯一確認できる装置「自我」は、その末席に位置しています。


どうやら、「あなた」にとって「無意識」と「自我」は切り離せないようにみえます。


思い出してください。

「あなた」は「無意識と自我の共生体」だったことを。

上述の内容と一見矛盾するようですが、「あなた」は、どちらも無視できないようです。

本当にそうなのでしょうか?


次回は、「無意識」と「自我」の関係性について少し深く考察していきましょう。

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